日本で税金が始まったのはいつ?古代の「税を納める仕組み」が生まれた理由

買い物のたびに払う消費税や、給与から引かれる所得税。
「税金ってそもそもいつからあるの?」と疑問に思ったことはありませんか?

この記事の結論を簡潔にまとめると、以下のようになります。

  • 税の起源:
    弥生時代に見られる、支配者や共同体への「貢ぎ物」
  • 国家システム化の理由:
    中央集権の国づくりと国防のため、安定した財源が必要になった
  • 当時のリアル:
    米だけでなく、特産品の運搬や無給の労働など「極めて重い負担」だった

本記事では、古代日本で本格的な税の仕組みが作られた歴史的な背景から、 現代とは大きく異なる、当時の過酷な実態までをわかりやすく解説しています。

日本の税の始まりとは?

日本の税の始まりとは?

現在私たちが納めている税金は法律に基づく義務ですが、最初から厳密なルールが存在したわけではありません。

日本の税の歴史は、現代の法律に基づく制度とは異なる、素朴な風習から始まりました。

ルーツは弥生時代の「貢ぎ物」

日本で税の原型と言えるものは、稲作が本格的に始まった弥生時代だと考えられています。

収穫物を蓄えられるようになると、貧富の差や集落同士の争いが生まれました。
その中で、祭祀、争いの調整などを担う有力者が現れます。
人々は、この共同体をまとめる支配者や祭祀の場に対して、収穫物などを納めるようになったと考えられています。

中国の歴史書『魏志倭人伝』にも、邪馬台国の時代に「租賦」を収めていたと読める記述があり、これは日本に税や貢納に近い仕組みがあったことを示す、早い記録の一つとされています。

つまり、日本の税のスタートは、現代のように法律で細かく定められた税金ではなく、共同体や支配者を支えるために収穫物などを納める「貢ぎ物」に近いものでした。

権力者への上納から「国家への税」へ

弥生時代から古墳時代へと時代が進むにつれ、ムラはより大きなまとまりとなり、貢ぎ物は地域の力を持った豪族や、ヤマト王権への上納へと規模が拡大していきました。

しかし、この段階ではまだ、全国一律の明確な「ルール」に基づくものではありませんでした。

現代に通じる「国家の制度」としての税が本格的にスタートしたのは、飛鳥時代から奈良時代にかけてのことです。

「税のシステム化」が急がれた理由

「税のシステム化」が急がれた理由

飛鳥時代から奈良時代にかけて急速に進められた税のシステム化。

その背景には、当時の日本を取り巻く国内外の「切実な事情」がありました。

豪族中心から天皇中心の国づくり

かつての日本は、各地の有力な豪族たちが、それぞれの土地と人々を独自に支配していました。
しかし、「大化の改新」以降、豪族が土地や人々を個別に支配する仕組みから、国家が人々と土地を把握する中央集権的な仕組みへと、少しずつ移行していきました。

全国に役所を置き、役人に給与を支払い、インフラを整備するには、莫大な「国家運営のコスト」がかかります。
豪族任せの曖昧な徴収ではなく、国庫を安定させるための確実な財源確保が必要不可欠になったのです。

白村江の敗戦で高まった国家整備の必要性

税や戸籍の仕組みが整えられていった大きな要因の一つに、海外からの脅威に対する「国防への危機感」もありました。

西暦663年、日本は朝鮮半島の争いに介入し、「白村江の戦い」で唐と新羅の連合軍に大敗を喫します。
いつ強大な唐と新羅が日本へ攻め込んでくるかわからないという危機に直面し、九州などに巨大な防衛施設を建設したり、兵士を配備したりすることが急務となりました。

こうした防衛体制を支えるためにも、全国から物資や労働力を安定して集める仕組みが重要になったと考えられます。

「戸籍」と「土地のルール」の誕生

国家運営のコストと防衛費を安定して集めるためには、人々の正確な把握が必要です。
そこで整えられたのが、670年に作られたとされる全国的な戸籍「庚午年籍」です。

その後、国は戸籍や計帳によって人々を把握し、班田収授法のもとで、耕作するための土地=口分田を与える仕組みを整えていきました。

そして、701年の大宝律令により、租・庸・調を中心とする本格的な税のルール、時には労働や兵役を課すというルールを定めたのです。

このように、戸籍で人々の情報を管理し、土地を与えたうえで税を徴収する仕組みが、日本の本格的な税システムの土台となりました。

現代とは大きく異なる古代の税負担

代とは大きく異なる古代の税負担

古代の税金というと、「収穫したお米を納める」というイメージが強いかもしれません。

しかし、当時の税制度の記録を紐解くと、現代の感覚では想像もつかないほど多岐にわたる負担が民衆にのしかかっていました。

実は「布」や「地方の特産品」も重要だった

税の基本であった「租・庸・調」のうち、お米を納める「租」は、実は収穫量の数パーセント程度であったとされています。
当時の人々にとって重い負担となっていたのが、それ以外の現物納税でした。

「庸」は、本来なら都で働く労役の代わりに布などを納める税でした。
一方の「調」は、麻布・絹・塩・海産物など、その地域の特産品を都へ納める税でした。
これらは都で働く役人の給与や、国家の運営資金として欠かせないものでした。

日々の農作業の合間を縫って機織りをし、決められた品質の特産品を準備することは、当時の人々にとって非常に重い負担だったと考えられています。

交通費は自己負担の「運脚」

さらに過酷だったのが、用意した布や特産品を都(現在の奈良県方面)まで運ぶ作業です。
この運搬を担う人々は「運脚」と呼ばれましたが、実は、都までの交通費や道中の食費などは「自己負担」でした。

地方から何十キロ、時には何百キロという道のりを、重い荷物を背負って歩き続ける過酷な旅です。
道中で食料が尽きてしまったり、病に倒れたりして、故郷へ生きて帰れない人も少なくありませんでした。

単に物を納めるだけでなく、「運ぶこと自体」が極めて重い負担だったのです。

人で納める負担「雑徭」と「防人」

税金として納めるのは「物」だけではありません。
人々の「労働力」や「兵役」も、国家を維持するための重い公的負担でした。

「雑徭」は、地方の役所から命じられ、道路や水路の建設などの土木工事に従事する労働の税です。
年間最大60日程度働く規定があり、働き手を取られることで自らの農作業にも大きな支障をきたしました。

また、国防を担う「防人」は、はるか遠くの九州の防衛に就く任務です。
主に東国(関東地方など)の男性が集められ、任期は3年とされていましたが、武器や道中の食料を自前で用意しなければならないケースもあったとされます。

愛する家族と引き離され、生きて再会できる保証のない防人の悲哀は、『万葉集』の歌にも数多く残されています。

まとめ

私たちが日々納めている税金は、日本の長い歴史の中でその意味合いを大きく変えながら現代へと受け継がれてきました。
古代における税の成り立ちと進化を振り返ると、以下の3つのポイントに整理できます。

  • 税のルーツは「貢ぎ物」:
    弥生時代に生まれた、支配者や共同体に収穫物などを納める仕組みが始まり。
  • 国家システム化の理由は「国防と国づくり」:
    飛鳥〜奈良時代にかけて、外国からの脅威に備え、天皇中心の強い国を作るための安定した財源が必要になった。
  • 古代の税は「極めて重い負担」:
    お米だけでなく、布や特産品の納付、交通費自己負担の過酷な運搬、無償の労役や兵役など、人々の生活に重くのしかかっていた。

最初はコミュニティを維持するための素朴な風習だったものが、時代が進むにつれて「国家を守り、運営するための厳格なシステム」へと姿を変えていきました。

現代の税金や手続きも決して楽なものではありませんが、古代の人々が背負っていた過酷な実態を知ると、私たちが社会を維持するための「税」に対する見え方が、少し違ったものになるのではないでしょうか。

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